『愛人(ラマン)』 ニンフェットの告白 その2
こちらの続きです。
リムジンにはとても上品な男が乗っていて、私をじっと見つめている。白人ではない。ヨーロッパ流の服装、サイゴンの銀行家たちのような明るい色の絹袖のスーツを着ている。わたしをじっと見ている。わたしはもう男のひとからじっと見られるのに慣れている。植民地の男たちは白人の女たちをじっと見つめる、白人の十二歳の少女たちのことも。三年前から白人の男たちも街なかでわたしをじっと見つめるし、母の男友達も、妻がスポーツクラブでテニスをしているときを見はからって、うちにおやつを食べにきませんかと丁寧な口調でわたしに声をかける。
12歳のころから、植民地の現地の男たちに、そして白人の男たちに見つめられ、誘われるのになれている少女。
恐ろしいことに、彼女は自分がなぜ男の視線を引き付けるのか、冷静に理解している。
もしかしたらわたしは、本当にしょっちゅう男のひとたちから見られているもので、思いちがいをして、自分のことを美人の大人のように美しい……と思っているのかもしれない。でもわたしは、これは美しさの問題ではないのだと知っている、ほかの問題なのだ、たとえば、そう、ほかのこと、たとえば才気のためだ、と。
ここを読んで、「はぁ~!」と思いましたね。ナボコフが「命取りの悪魔」と呼んだ特別な魅力を、デュラスは「才気」といっているんですね。
自分がこんな風に人に見られたいと思うーーわたしはそのとおりに見えている、美しいとも見えている……みんながこんなふうであって欲しいと思う何にでも、わたしはなることができる。自分のことを魅力的なんだと思ったとたんに、わたしを見る男のひとにとって本当のことになる、その男のひとはわたしが相手の好みに応じて欲しいと願っている、私はそれもまた知っている。
ローティーンの女の子にこれだけの自覚があるのか、回想で書かれた物語ですからこれだけしっかりした実感ではなかったのかもしれないですが、漠然とそういうことを身に着けていたのでしょう。
それとも、作中の少女自身も将来は作家になりたいと考えていた、とあるので、自身の内側を繰り返し考えたこともあったのかもしれません。
わたしはもうわかっている。何かを知っている。女を美しく見せたり、見せなかったりするのは服ではない、念入りなお化粧でもなく、高価な香油でもなく、珍しく高価な装身具でもないということを、わたしは知っている。……どこにあるかは知らない。ただ、女たちがここだと思っているところにはないと、知っているだけだ。
そして、彼女は植民地の白人駐留区に住む白人女性たちが、自分をきれいに磨きたててながら、ヨーロッパに戻る日のことだけを考えていることを間違いだと思っている。
金持ちの大人の白人女性を見下して、自分の魅力をより感じているのだ。
わざわざ欲情を抽きだす必要はなかった。ある女のなかに欲情が棲まっていれば男の欲情をそそる、あるいはそもそも欲情など存在しない、そのどちらかだった。女のなげかける最初の眼差(まなざし)、それだけで、すでに欲情がある、あるいは欲情はかつて存在したことがない、そのどちらかだった。欲情とは性的関係への直接的な相互了解、あるいは何ものでもない、そのどちらかだった。このことも、同じくわたしは実地の経験以前に知った。
ただひとりエレーヌ・ラゴネルだけが誤謬の一般法則を免れていた。少女時代のなかにいつまでも居残って。
最初の眼差しを見ればそれでわかるでしょう、欲情があるので性的関係を持っていいか、それとも全然欲情がないか。ってそういうことでしょうか。
つまり、実地の経験以前にわかっていた「このこと」というのは、「女のなげかける最初の眼差」で、「両想いだからOKよ❤」「興味がないの」って伝えられるってことで、そんなことはたいていの女のひとはいくら大人になっても残念ながらできないものです。
やっぱり特別なニンフェットは、いるんですね。はぁ~。
そして、エレーヌ・ラゴネルについて。
ただひとり、少女時代のなかにいつまでも居残って、と言われたエレーヌ・ラゴネル。エレーヌは寮の友人で、エレーヌと少女の二人は、彼女たちが通う学校の唯一の白人生徒です。
親しい同世代の女ともだちは、エレーヌしかいなかったのでしょう。
エレーヌはもうすぐ17歳。少女より1,2歳年上で、成熟した体つきで少女を魅了します。
彼女は淫らだ、エレーヌ・ラゴネル、彼女は自分でそれがわかっていない、彼女は真裸で寮の寝室のなかをあちこちと歩きまわる。神の下さったあらゆるもののうちで一番美しいもの、それはエレーヌ・ラゴネルのこの身体だ、比類ない身体、身長と、この身体が乳房を自分の外に、いわばはなれたものとしてもつそのやり方とのあいだのこの均衡。このきりりとした乳房のまるまるとした外見、こちらの手の方に突き出されるこの形状ほどに、類を見ぬものはない。……彼女は、自分がとても美しいのだということを知らない……。
彼女のほうは、わたしが知っていることをまだ知らない。彼女は、彼女はそれでも17歳になる。まるでわたしがそうと見抜いたようだ、彼女は、私の知っていることを、断じていつまでも知らないだろう。
エレーヌの身体を、うらやんだり欲情を感じたり、彼女の身体になって悦楽を感じたいと思ったりする少女は、友人の無知をさげすむ、というより愛しいもののように思っているようだ。
いつまでも知りえないのは、ごく一般的な女がそうなのであって、デュラスさま、少女時代からのあなたが特別なのです。
と思います。普通の女である私からすると。
映画の中でも登場するエレーヌは、確かに裸で寮の中を歩き回っていました。このトレーラーの中で一瞬登場しますが(1:00)蚊帳をつったベッドのなかに少女が二人で寝ているところです。一瞬です!笑
左がエレーヌ、右が主人公です。
自身で映画監督もしたマルグリット・デュラスは、ジャン=ジャック・アノー監督のこの映画が気に入らなかったそうで、映画の脚本も担当していましたが途中で降板しました。
何が気に入らなかったのかよくわかりませんが、綺麗な主演女優のジェーン・マーチが「才気」不足だったのかしら?
脚本を降板した後、同じテーマで、映画化を見据えつつ、『愛人(ラマン)』の姉妹作ともいうべき『北の愛人』を77歳で執筆したというからたいしたおばあさんです。
- 作者: マルグリットデュラス,Marguerite Duras,清水徹
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1996/10
- メディア: 文庫
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以下は、77歳時のインタビューですが、最後の恋人になったヤン・アンドレアと一緒の様子が描かれています。
デュラス(左)1914年生まれとヤン1952年生まれ
ヤンが28歳、デュラス66歳の時から16年間、デュラスが亡くなるまでのパートナーでした。
38歳年下の彼氏……。さすがです。