文庫本が出た『ノボさん』と、新聞連載『夢十夜』と、いろいろ
私の母が、『ノボさん』の文庫本・上下2巻を持ってきて、
「これおもしろいから読んでみない?」と言うのです。私はあんぐり開きそうになるあごをおさえながら、
「ありがとう、でもその本はもう読んだの。」と答えました。
『ノボさん』を読んだのは、2014年6月30日でした。読書メーターに記録があるもん。
松山弁でおおらかに話す正岡子規と、東京生まれで秀才の誉れ高い夏目漱石。学生時代に知り合い、終生お互いに敬愛しあっていたんですね。正岡子規は、学生のころから自分の病気を知り、長くない命と覚悟して、いろんなことに取り組む。活動があまり多いので、次第に小説、というより活動記録を読んでいるような気分になる。交友範囲も広く、すごい勉強家だ。子規の研究があってこそ、日本文学の中で俳句・和歌の地位が高まったのだと知る。病が重くなってからの闘病生活は凄惨だ。
読了日:2014年6月30日 著者:伊集院静
今年になって文庫本が出たんですね。
母に言われて私がびっくりしたのは、この『ノボさん』を私が図書館から借りてきたときに、母が「わぁ、おもしろそう!先に読ませて!」と言うので渡すと、「おもしろくて夜更かししちゃったわ~」と、すぐに読んでいたからです。
母は読書家で、まだボケてはいません。前回『ノボさん』を読んだのも2年近く前だし、多少覚えがある内容が出てきても、半世紀以上の漱石や子規に対する知識の集積があって、「これ読んだかも?」という疑問には結び付かなかったのでしょう。
同じ本が新鮮に、大変楽しく2度読めて幸せな人です。
ところで、私はどうも恥ずかしいことに、詩歌の鑑賞が苦手です。小説だって絵画だって音楽だって好き嫌いでしか選んでいませんが、詩歌についてはこれは好き、これはダメということがうまく言えないんですね。
それで、子規の俳句と言っても「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」がぼんやり浮かぶ程度で、それに対してどう、とかいう気持ちがありません。
ただ『ノボさん』を読んで、俳句・和歌が文学の表舞台に返り咲くことに、子規が大いに貢献したことを知りました。
また、この本を読んだときにちょっと驚いたことがありました。
- 作者: 司馬遼太郎,ドナルドキーン,Donald Keene
- 出版社/メーカー: 中央公論社
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司馬 明治以後の文学でも、同時期の人を「ますらおぶり」と「たおやめぶり」(私の注:漢文的男らしさ、かな言葉的女らしさとでもいいますか……)で比較してみると、たとえば友人関係にあった夏目漱石と正岡子規の文章を見てみますと、ちょうど明治の近代文章が成立する時期にあらわれた、もしくは近代文章を成立させた二人ですけれど、子規はやはり「たおやめ」でしょう。漱石は「ますらお」でしょう。そして私は、子規の俳句とか短歌とかはあまり上手でないと思うのですけれども、しかし、散文はじつにいい。
キーン まったく同感です。
司馬 漱石はわりあい若いころ、子規をからかうんですよ。「兎角大兄の文はなよなよとして夫人流の習気を脱せず……」とか「毎日毎晩書いて書いて書き続けたりとて小供の手習とおなじことにて」とか言って、からかうところがたしか明治二十二年ころの漱石の手紙にあったと思うんです。とにかく子規は綿々と書いちゃう。綿々と書く女性的系列のなかに子規は入ってますね。
キーン しかし、きっと子規は、自分は「ますらおぶり」の権化だと思っていたでしょうね。
そして二人は、子規がいかに男性的なものを好んでいたか、死の病床でフランクリンの自叙伝を読んでいた、などという話をするのでした。
ふーん、子規は、俳句や短歌があまり上手でないのか。二人がまったく同感だもんね。
『ノボさん』を読んでいると、子規がやりたいことがいーっぱいあって、それなのに健康に恵まれず、惜しまれつつ亡くなっていく様子が描かれている。
そして、親友の漱石も短命だ。創作期間はたったの10年余り。
夏目漱石は、子供のころから特別に好きな作家です。
それで、『こころ』の新聞連載が始まったときは、うれしくて毎朝、漱石読もう!と思いました。
でも、毎朝読めなくて、新聞が捨てられなくなってしまいました。ますます遠のくうちの断捨離……。
朝日新聞の漱石連載は、『こころ』『三四郎』『それから』『門』とつづいて、今は『夢十夜』をやっています。
それで、『夢十夜』からは毎朝読むつもり……(*‘ω‘ *)
あの、怖~~~い第三夜が先週の金曜日でしたから、まだ追いつけます。
朝日新聞を取ってらっしゃる方はご一緒に読みましょう♪
あ!今どきの人は新聞って取ってないのかな?('_';)
web版では、残念ながら有料会員しか読めないようです。ログアウトして確かめました。
青空文庫でも読める漱石ですが、明治時代の連載当時と同じ形で読めるのはなかなかですよ。
4月からは元々は雑誌「ホトトギス」に掲載されていた、『吾輩は猫である』が、連載開始です。
今年は没後100年にあたるので、漱石を少し読み返そうかなぁ……。と思っているところです。
長々と書いたうえに、おまけです。先ほどの本。
司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談で、初出が1972年です。
この対談が中央公論社の会長さんから提案されたとき、最初に司馬遼太郎は、それほど憂鬱なことはありません、と断ったそうです。はっきりそうとは書いていませんが、たぶんすぐれた日本文学研究家であるキーン氏に「作家」として評価されることを恐れたのではと思います。はしがき(前書き)より。
そして、あとがきのほうでキーンさんは、対談を勧められたときに、名誉と不安を感じたという。それは数年前から古典文学に没頭していて、司馬遼太郎の小説をほとんど読んでいなかったからで、司馬の方から「自分の小説を読んでこないこと」という条件が付けられたことを知り、安心したといいます。だが、「日本の明治という時代にソーセキ・ナツメという日本人の小説家がおりましたが、お聞きになったことがあるでしょうか」というような質問が出たらどうしよう、という不安もあったそうです。
二人がとてもとても博学で、お互いにそれもご存知でしたか、なんて言いながら対談している。 いいなあ。こんな大人がそばにいて、わからないことをすぐに教えてくれたらいいのに。